最終更新日: 2006/7/14

『子どもと話す 言葉ってなに?』

 影浦 峡著 
 現代企画室 170p.1200円+税.ISBN:4-7738-0607-9
 2006年7月発売
子どもの言語環境や外国語教育について真剣に考える友人や知人との会話、その子どもたちとの会話、大学の学生との会話や授業で気づいたこと、パートナーとの会話、多様な言語背景を持つ様々な年齢層の友人たちと話してきたことを頭において、真剣に書きました。はじめての一般書です。中学生から大人まで、広い範囲の方々にお読みいただければと思っています。

ご要請があれば、説明やお話しに出向きますので、ご連絡下さい。

目次

  • はじめに
  • 言葉を学ぶこと・身につけること
  • さまざまな言葉を使う場
  • 言葉と意味を知っていること
  • 個別言語
  • 日本の言語状況
  • 言葉とコミュニケーション
  • あとがき

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帯のアオリ

勉強に、仕事に、ふだんの生活に、いつだって言葉はついてまわる
言葉の問題に悩まされることは多いけど、
いままで「言葉」そのものを考えたことなんてなかった
「英語をネイティブみたいに話すって、どういうこと?」
「どうして言葉が理解できるの? そもそも言葉の意味ってなに?」
姪との対話から導かれる、言葉のすこし危なっかしくて豊かな世界。

あとがき(一部、本と相違があるかも知れません)

ほとんどの人にとって、言葉はとても身近なものです。母語は、多くのばあい、どうやって学んだか思い起こせないほど自然に身に付きますし、自分自身の一部となり、意識さえすることのないほどあたりまえの存在になります。

ところが、二つめの言葉を学ぼうとしたとたん、それが何語であっても、通常その言葉は、まったくよそよそしい不透明なものとして現れます。最初の言葉の自然さと二つめの言葉のよそよそしさの間にある大きなへだたりを目にすると、それがいずれも「言葉」という同じグループに属するとは思えないほどです。

言葉のない人間社会はありませんし、誰もが何らかの言葉を話すという点で、言葉は人にとって本質的な存在です。その一方で、人間という種に共通の、一つの言葉があるわけではありません。とても抽象化したところでは、言葉を使うために必要となる人間に共通のメカニズムを考えることができるかもしれませんが、人が現実に話す言葉は、地域によって、そして世代によって、大きく異なっています。とても大雑把にいっても、地球上に現在ある言語は数千を数えます。そして、言語が異なると、お互いにわかりあうことは簡単ではありません。

言葉は人間のものですから、言葉の違いは人間の世界だけのことかと思えば、そうでもありません。言葉の違いは、たとえば動物にも影響します。日本語圏の犬は「ワンワン」、猫は「ニャンニャン」、鶏は「コケコッコー」と鳴きますが、英語圏のオーストラリアでは、犬は「バウワウ」または「ウォッフウォッフ」、猫は「ミャーオウ」、鶏は「コッカードゥードゥルドゥー」と鳴きます。

言葉の違いはこのようにとても大きいので、自分の話す言葉は自分の文化と深く結びついた本質的なものであり、自分と同じ言葉を話す人はほかの言語を話す人とは本質的に異なっていて、お互いに分かり合うことはできないと主張する人も出てきます。こうした人々は、まさにそのような信念にもとづいて行動するために、言葉の違いを手がかりにして、一見したところ相互に理解しあえないような違いをみずからつくりだしてしまうことがあります。

その一方で、言葉は、個々の言葉の大きな違いを平然と乗り越えます。シェークスピアやゲーテやモハッシェタ・デビの作品を日本語に翻訳することは、難しくはあっても、原理的に不可能ではありません(不可能だという主張を、神学的にではなくきちんと検証できるように行うならば、ある作品に対して無限にありうる翻訳について、それが「正しい翻訳」ではないと常に誰にとっても納得の行くかたちで言うことができなくてはなりませんが、そのためには、天上にではなくこの世に、少なくとも誰か一人、「真の正しい翻訳」を知っている人が存在する可能性がなくてはならないのですから)。それに、シェークスピアやゲーテやモハッシェタ・デビの作品を、まごころや誠意だけで理解することはできませんし、絵で表現することもできません。ですから、言葉の違いは、ただ言葉によって乗り越えられるというだけでなく、言葉によってしか乗り越えられないものでもあります。結局、地球上には多様な言葉があるにもかかわらず、言葉が言葉である限り、どの言葉も普遍的なものだといえそうです。

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ところで、周りを見回すと、いつのまにか、私と同世代の友人や知人の子どもたちが、小学生や中学生、ときに高校生になっています。そのような事情を反映してか、友人や知人と話をする中でも、子どもの教育や勉強方針といった話題が増えました。英語を小さいときから教えるべきか、会話をやらせるべきか、どうして数学ができないか、理科は得意だけど社会は苦手なのはなぜか、自分の子どもは内向的で孤立していないか、子どもとの話が近頃うまくいっていないがどうすればよいか、など。ほとんどの話題には、言葉の問題が関係しています。子どもたちと話すときも、そもそも話しが成立するために言葉の問題がかかわってきます。

大学の講義で、直接言葉についてではなく、プログラミング言語や数理的な手法などを教えているときも、よくわかる学生とそうでない学生との間には、単にプログラミング言語や数式ではなく、より一般的に言葉をまねし、組み替え、操作する力の差があることに気づかされます。

このような状況を前にすると、言葉をそとから眺めるのではなく、自分も含めて人が実際に言葉を使う状況に即して言葉を考える必要が出てきます。

実際、言語学の専門知識を得るといったこととはまったく違う意味で、基本的な言葉の力をマスターし、言葉の基本的な性格を理解することは、好むと好まざるとにかかわらず、複雑化した現代社会の中で、それなりに幸せに暮らすことの必要条件となってもいます。契約に騙されないこと、誤解されないようにすること、他人を傷つけないこと、困ったときに誰かに助けを求めること、・・・・・・。多くのばあいに、言葉が決定的に大切な役割をはたします。

社会の中で生活していくために言葉が重要であることは、漠然とかも知れませんが、広く一般にも認められているようです。たとえば、いまの日本に見られる英語の学習熱にもそれが現れていると考えることができそうです。

こうした状況で、いろいろな人と話をするときに注意していると、対人コミュニケーションや外国語学習まで、言葉をめぐるいろいろなことについて、年齢にかかわらず多くの人が、何か切実な、けれどもうまく表現できない気持ちを抱いていることに気づかされます。

ところで、学校では、「国語」や「英語」の授業はあっても、言葉についての授業はありません。個別の言葉を学ぶことは、言葉について学ぶこととは微妙に違います。言葉の研究を専門としている言語学という学問も、人が生きている中で言葉について切実に抱く疑問については教えてくれません。この問題に最も近いのは哲学や言語哲学の領域のようですが、一般向けの入門書はただ知識を伝えたり、パズルのような議論になることが少なくありません。言語教育に関する本には切実な問題を扱うものも多いのですが、実践的な処方----それ自体はとても貴重なものです----を結論としがちです。

そんな状況で、言葉について子どもに語ることを想定したとき、何をどう話せばよいだろう。普遍的でありながら多様であり、最も身近にありながら限りなく遠く、コミュニケーションに必須でありながらしばしば混乱を引き起こし、それなりに幸せな生活を送るために必要であることは何となくわかりながら、具体的にはどこが必須なのかはっきりしない、そんな中で実際に言葉を使い、学び、言葉と付き合わなくてはならない人の状況に即して言葉の存在を切実に考えるとき、いったい言葉についてどのように語れるだろう。この本は、このようなことを頭に置いて書きました。

ですから、この本では、文法の仕組みや語彙、言葉の起源、言語の様々なバリエーションと類型といった、言語学の入門書に書かれるようなこと(そうした本は新書でも少なからず出ています)を、直接の知識としては扱っていません。できる限り、言葉を使う立場に即しての疑問と関連づけて言葉を論じようとしたためです。

厳密にどのくらいというのは難しいのですが、本文で取り上げた会話の少なくとも三分の二は、私が色々な人と実際に行った会話にもとづいています。といっても、中学生・高校生との会話はそのうちの三分の一ほどで、残りの三分の二は、大学生や、子どもを持つ大人との会話です。ですから、この本が想定している中学三年生との対話としては少し難しいのではないかと思われる読者もいらっしゃるかも知れません。ただ、私自身は、これまでほとんどそうした年齢の区別を考えずに、同じような話を誰とでもしてきましたし、実際、中学生や高校生とした会話よりも大学生や大人とした会話の方が難しいものだったということはありません。これまでの経験から、特にこうした問題を理解するのに年齢は関係ないのではないかと思っています。

なお、自然科学とは異なり、言葉をめぐっては、そもそもどんな話題が重要であるかについても、それぞれの話題について現在のところ何が共通に認められている見解であるかについても、はっきりしていないことが多いのが実状です。ですから、この本に書かれていることは、私自身の言語観を確実に反映しています。

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この本を執筆する際には多くの人にお世話になりました。ネット上の学びを考える実験的かつ実践的な場であるe-教室を主催し、私に「英語で社会」の授業を担当する機会を与えてくれた国立情報学研究所新井紀子さん。英語教育の実践を重ねて大きな成果を上げてきた岐阜大学の寺島隆吉さん。京都大学情報学研究科の特別講義で言葉について話す機会を提供して下さった佐藤理史さん。二〇〇二年度から二〇〇五年度まで、東洋大学の「知識情報処理論」を受講してくれた学生たち。本書にも登場してくれたパートナーのステファニー・クープ。また、東京大学の田中久美子さん、東洋大学の海野敏さん、小説家の江國香織さん、友人の矢島公子さんからは、草稿の段階で貴重なコメントをいただきました。最後に、この本を執筆する機会を与えてくださった現代企画室の小倉祐介さんに感謝します。

(c) Kyo Kageura, 2005, with many thanks to Prof. Satoshi Sato.